いつから父、市井三郎と私の関係が哲学者、市井三郎と私の関係になっていったのか記憶が定かではない。私が中学生だった頃はもう完全に家で哲学者と向かい合って暮らしていたように思う。今過去を振り返って確かなことは私が哲学者、市井三郎と日常の場で関わり合っていたことは現在の私、すなわち私の思考の基盤を作るものであったということである。それとともに私がこのことに対して感謝の気持ちを持つのは哲学者としての市井三郎を知らずして父としての市井三郎を理解するのは無理だったと確信するからである。
父は器用な人ではなかった。だから家庭の中では夫として、父親として振る舞い、外では哲学者としての顔を持つ、ということは全くなかった。四六時中哲学者、という人だった。家で思考をめぐらしたり、原稿を書いたり、と仕事をすることが多かった人なのでこういう視点から見れば当たり前のことだったのかもしれない。しかし学者でもなく、大学の学生でもなかった家族は時として父に対して“理解不可能な人物”という感情を持っていた。
兄、俊也の次女、佐季ちゃんは心臓疾患を持って低出生体重児として生まれてきた。たった一カ月の命だったのだが2500g未満の体重だったため、新生児集中治療室の保育器の中で一生を過ごした。ほんの内輪でのお葬式の後、父は兄夫妻に『佐季はかなり複雑な心臓疾患だったためこの先長く生きたとしても本人にとっても両親にとってもたいへんな苦労だっただろうから、早く亡くなってよかった』というようなことを語ってしまった。保育器の中にいたため、自分の我が子を一度も胸に抱くこともできないまま逝かせてしまった親がその死を悲しんでいる真只中。兄の父に対する怒りは想像を絶するものだった。私はこのとき哲学者、市井三郎の論理的な正しさを理解しながらも、この論理的な頭にあきれてしまった。人間は感情に左右されるものであり、そういう時に論理的に正しいことを言っても何の悔みにもならない、ということがこの論理一遍の頭の中には入っていなかった。いや、入っていなかったというよりは感情を謝絶して論理で考えなければ自分自身も苦しかったのだと思う。
このような出来事を書くとまるで父が感情のない冷たい人間だったように聞こえるかもしれない。でもそれは誤解であることを付け加えておかなければならない。私が中学生の時親友の一人が家出もどきのことをしたことがある。夜遅くに私の親友のことを心配していっしょに車で捜しに行ってくれたのは父だった。携帯などはもちろんない時代だったからどこにいるのか見つけるのはたいへんだったけれど、運よく彼女に会えた。『家には帰らない』と言いはる彼女の話を熱心に聞いてくれて、なんとか説得し我が家に連れて帰ることができた。その後も明け方まで三人でいっしょに真剣に話し合ったことは今でも記憶に留まっている。40年も前になるその話合いがどんなものだったのか、今は覚えていない。しかし彼女はその後納得して無事に自分の家に帰って行った。
父は感情という哲学者にとってはとてもやっかいなものを扱うのが苦手だった。そのため自分の得意な論理で自分の感情までも論理化しようとする傾向があった。それは哲学者に徹しようとする父の姿勢であったのと同時に、ときにはたいへんな苦痛をも生み出す強い感情は何かにすり替えなくてはいられなかった父の性分でもあった。そのため父の愛情は論理のフィルターを通してしか表現されなかったことが多かったように思う。上記の兄夫妻に対しての悔みもその一つの例である。あの“論理的に正しい表現”は兄夫妻のことを思っての父の愛情から出てきた出来事だったと私は解釈している。父は自分のやり方で他の人にも苦しみを少なくして欲しかったにちがいない。残念なことに自分の強い感情を論理化してしまうことに慣れていた父には、普通の人は悲しみを癒す時間が必要で、その時間を待たずに理性的な会話をしてもその言葉は冷たく響くだけだ、ということがわかっていなかった。
市井三郎の哲学の根底は少しでも『不条理の苦痛』を少なくしていく社会の形成を目指すものであったのだと私は理解している。この問題を考える時、この人物の中に人間に対する大きな愛情がなければこのような哲学は生まれてこなかっただろうと感じるのは私の誤解であろうか。私の市井三郎に対するこのような見解が誤解であろうがなかろうが、そんなことは私にとって全く問題ではない。ただ市井三郎を客観的に見つめ、冷静に分析した上で受け入れ、この人物との関係をとても感謝している自分を発見する時がある。そういう時、私が父から受け継いだ論理的思考の影響はなんと大きいものなのか、と思わされるのだ。今の私にとって父、市井三郎と私の関係は過去の思い出でのような気がする。しかし哲学者、市井三郎と私の関係は時間を超えて今現在も私の中で活き活きと生き続けている。少しでも『不条理の苦痛』を少なくしていく社会の形成を目指すために私は何をするべきか。何ができるのか。私の心の中でこの課題は常に問われ続けているからである。
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