市井三郎先生の講義と市井歴史哲学
竹内 通夫

• 市井先生の講義の思い出 私が市井三郎先生(1922-1989)の講義を受けたのは愛知学芸大学(現愛知教育大学)2年の時(1959年)でした。今から(2018年)数えてもう60年近く前になります。講義のタイトルは「哲学」で受講生は哲学専攻、史学専攻、地理学専攻などの学生20名位であったように記憶しています。市井先生は当時気鋭の哲学者として週日は寝袋を使い研究室で泊まり週末に講義を終えると岡崎―横浜間を、単車を飛ばして帰っておられることを講義の中で話されていました。(詳しくは、藤田信勝「学者の森」(上)毎日新聞社)
 
講義中は教壇上を左右に歩きながら考え、考え話をされていた情景が思い起こされます。講義内容は当時の拙いノートを見ますと西洋哲学史の中の人物にエピソードを添え話されましたがその中に印象的な一文がありました。それは、「生活も生命も保証された職業化された人の中からは時代の先駆者は出ない。官憲と戦い万能と誠実さのある人、貧しい生活の中で闘った人こそ偉大な人が多い。日本の明治期では福沢諭吉など少数しかいない。大正の「新人会」のマルクスボーイ達は見栄からであり誠実さからでたものではなかった。オレは東大出だという(意識が強く) 役人、国立大学の人には少なく、在野の人が多かった。 加藤正(共産党員)戦後、赤貧の中肺結核で死す。昭和二十四年遺稿集刊行。昭和7年8月「唯物論研究会入会。彼は一地方の左翼思想家ぐらいに思われていた。彼は兵庫県の一寒村の”細胞“を受け持って肺病で倒れるまで戦った。」
市井先生は加藤正を特に後に展開する「キー・パーソン」とは述べていませんがすでにこの年。「思想」誌にキー・パーソン論を展開し始めていますので意識されいたのかもしれません。スピノザについては「割礼」のあるユダヤ教からはなれキリスト教徒にもならず破門されたことや哲学は本質において文学と一致する点がある。
西田哲学は「人生いかに生くべきか」という人生哲学の面からすぐれているといえるが世界観はよく理解出来ないといわれた。
唯物論については、レーニンにふれ、また「平和共存」の思想はなにを言おうとしているのか耳を傾ける必要があるともいわれた。(注、スターリン後のソビエト共産党第一書記フルシチョフの平和共存の提唱。)それに続いて市井先生は「素粒子論が進むとB・ラッセルとマルクス主義とが同一になる。」といわれたが私には理解できなかった。また黒田寛一(注、近年でも著者が刊行されている。)は当時の全学連主流派に影響を与えた「全世界プロレタリア革命こそ理想だという(永久革命論)黒田の論に触れています。
  私のノートの取り方が悪いせいでまとまっておりません。
能力の至らぬせいです。
  市井先生はその後、成蹊大学理学部に移られましたが、キー・パーソン論に対する疑問について市井先生にお手紙を差し上げ、ご返事をいただき(1961年5月)、横浜のご自宅に友人とお邪魔しましたがアポイントメントもなしに出かけお会いできるはずもなく帰るということもありました。私自身は歴史専攻でしたが、市井先生の講義は忘れ難いものになりました。 

• 市井先生の歴史哲学と私の卒業論文

市井先生の歴史に対する考え方=歴史観の特色はいわゆる「進歩史観」に対して「キー・パーソン論」を展開した点にある。従来の歴史観に挑戦しようと果敢に挑みつづけたその思想を多くの著作に展開されたことは決して忘れ去られるべきものではない。
1960年代、私の学生時代は日米安保条約改定の反対闘争の時期に当たり、岸信介総理(安倍総理の祖父)の国会での審議、強硬採決に対し全国の大学で反対運動が広がり、大学の講義は連日休校で、毎日「安保反対」デモに出かけていました。思想的にはいわゆる左翼思想、特にマルク主義思想が優位な時代でした。 マルクス主義による歴史の発展段階論は一つの明解なしかも絶対的な解答を私の前に提示してくれたが、当時の中ソ紛争や各国共産党の主導権争いを見るにつけ現実との差を目の当たりにするにつけ何か落ち着かない違和感をもっていた。結局、卒論は歴史学の講義「西洋近代化の諸類型」の影響もあって、当時の經濟史研究の中心であった大塚史学(大塚久雄-英国=経済発展の先進国型、高橋幸八郎―フランス=中間型、松田智雄―ドイツ=後進国型)による中間型というフランスの經濟史をテーマにと考えた。これは戦前からのわが国の歴史研究の続きのような歴史があった。戦前、明治維新の発展段階を巡り、「講座派」と「労農派」が対立し、前者は明治維新を「絶対主義革命」であり地主制という封建遺制が残ったと主張し、後者は「ブルジョワ革命」として近代革命と解釈していた。大塚グループは外国に学ぶ必要性を感じ、英・仏・独の比較史的研究をはじめたのであった。私は中間型のフランスに関心が湧きフランス革命前後の經濟史をテーマにと考えた。そうなると邦訳もあるが卒論の文献はフランス語のものを読まねばならず私は第二外国語でフランス語を履修したとはいえ慣れないフランス語を東大から赴任したばかりの助手の千葉先生(仏・英経済史)に「竹内君、今日もフランス語をやるよ。」と言われ研究室で指導していただいた。卒論のタイトルは「十八世紀 北部フランスならびにパリ周辺における農民層の分解」(約80枚)でした。(余談ですが、当時、コピー機はまだなく、マイクロフイルムに撮ってもらいそれを投影機でスクリーンか白壁に拡大して写し自分でノートに書き写すか、フイルムを、一枚づつ大学ノート大に引伸ばしてもらう方法しかなかった。今は遠い昔の思い出です。)
  卒論を終えてみて経済史の方法は歴史を「マス」(集団mass)としては把握できるがいかにして「個」に迫りうるかという問題が疑問として残った。つまり、英、仏、独の参加国の歴史の発展について「類型的把握」は可能ではあるが、歴史の中の「人間」をどう把握できるか、「個」にどう迫るかが問題として残った。当時、日本史も世界史の研究も盛んで、「歴史における法則性と主体性」「歴史の法則性と多岐性」「運命性と法則性」そして「歴史の一回性と連続性」「歴史における個人の役割」などが議論されていた。戦後の新しい社会の中で、「決定論」と「運命論」を克服しようという機運があったと思われる。
  そこへ市井先生が哲学的知見をもとに歴史学界に新風を起こしたのが「キー・パーソン論」あった。

市井先生の問題意識は大阪大学理学部在籍中に戦時中に火薬の研究に従事していたが、戦後は戦争の反省に立ち哲学の研究のためイギリスへ留学し理系出身の哲学者として歴史の研究を続けた。「思想の科学」の編集長として鶴見俊介・和子兄妹らとともにその活動を支え、大学の講義、著作執筆、会議など多忙を極めた生活が続いた。
病に悩まされながら懸命に研究に社会活動に健闘されながら1989(昭和64)年6月、卒然として亡くなられたことは天を恨んでも恨み切れぬことである。(「市民の論理学者 市井三郎」思想の科学社、1991)
研究上の交流は広く久野収、丸山眞男、山田慶児、斎藤眞、鶴見俊輔、鶴見和子、花田圭介、中山茂、R・ドーア、M・ジャンセンら専門分野から言えばこれ程多様な研究者と交流があったことに驚くばかりである。彼自身が理系から出発して哲学に入り、留学の経験に加え語学の力あったことが社会科学、人文科学、自然科学という枠にとらわれない学際的研究姿勢を生み出したと言えるのではないだろうか。共同研究「明治維新」などは一つの成果であると思われる。

• 哲学者市井三郎の歴史観

ここからは、学界の通例に倣い敬称なして市井三郎の歴史観についてのべたい。

1) 既成の歴史観への疑問

市井の提起したのは「歴史の進歩とはなにか」という論争の多い問題である。歴史は個性的であり、多様であり、多岐的である。その歴史の何をもって「進歩」といえるのかが問題である。 
市井は少なくとも単純な直線的進歩史観、発展的段階論を批判的にみていた。それは当時の国際情勢や国内情勢がある。マルク主義に対してはスターリン批判、ハンガリー事件、チェコ事件で共産主義の「社会帝国主義」をみてその非科学性を批判している。(市井「歴史の進歩とは何か」岩波新書、1971 p.81)
ダーウィンの「進化論」は突然変異と適者生存という二つの法則性が人間社会の「進化」に適用されるようになり、直線的進歩史観として「進化」=「進歩」と解釈され、「社会的ダーウィニズム」として19世紀の思想的潮流となった。しかし、生存闘争という自然的法則性が人間社会の進化過程においても人間の倫理的要請に合致するのかどうかが問題となる。いやそうではなく優勝劣敗の非情性が人間社会の進化=進歩に合致するとした「優生学」のF・ゴールトンらの考えが優勢になった。(p.86)市井はこれらの進歩史観に疑問を呈している。ヘーゲルの「神の意志」による段階的楽天史観にも批判的であった。
「進化」(evolution)は「退化、絶滅」などの自然法則に支配されるが、「進歩」(progress)は「価値概念」である。そこで彼が「歴史の進歩」とは何かという問いに対して次のようにいう。
「各人(科学的にホモ・サピエンスと認めうる各人)が責任を問われる必要にないことから受け取る苦痛、可能な限り減らさねばならない」という倫理的価値 理念の実現こそが「歴史の進歩」であるという提案である。(p.143 市井「明治維新の哲学」講談社現代新書1967、p.229 「歴史の”進歩“と価値理念・覚え書き」「思想」557号 1970年11月)

2)「近代」への疑念

市井は近代、特に西欧の近代理念、「自由」とか「平等」というものはいかに強者が弱者を収奪するものであったかを見て上記の提案をしたのである。そして、近代を懐疑するひとつの方法として、レヴィ=ストロースの「文化的相対主義」をあげている。西欧文明が示す異なる文明に対する異常な不寛容、他者をそれ自体あるがままに受け入れ認める能力の欠陥、自己と同一でないものの存在の拒絶などが文化人類学に学ぶ点であるとのべる。
また、K・ローレンツの研究から「人間より下等(生物学的進化の序列からして)であるはずの動物種のほうが多くの事例において人間という種よりも同一種内の 殺し合いを抑制する”儀式“的行動に富んでいるという事例(和平の儀式)をあげ、「人間という種は生物学的進化の一つの系統樹の絶頂に位置していながら、いや、そうであるからこそ,種内の相互攻撃―究極的は相互絶滅―の可能性を一面でもっとも強く内臓しているのである。」
それは前頭葉の発達による抽象的思考能力と自己主張の強さによるのである。
「いうならば、人間は理性的能力と並んで非理性的自滅能力がともに最高であるというもっとも深刻なパラドックスにとりつかれた存在だといえるのだ。」と断言した。(「思想」557号)

3) 実存的不条理な存在としての人間

神谷美恵子が「私でなく、なぜあの人が癩患者なのか」という実存的問題が彼女の生涯を決定したと同様に、なぜ自分はベトナム人、アラブ人、イスラエル人なのか、なぜもっと”多幸な“他国人でありえないのか。
これは「実存的不条理に関する問題」であり、この解決には「この不条理を直視し新しい価値理念の創造にしかない」とのべている。
「不条理な苦痛を軽減するためには、みずから創造的苦痛をえらびとり、その苦痛をわが身に引き受ける人間の存在が不可欠なのである。(「歴史の進歩とは何か」p.148、「哲学的分析」岩波書店、1963)
ここで、市井は「キー・パーソン」とは述べていないが、これこそ歴史の分岐点に立つ「キー・パーソン」なのである。

4) さて、我々いや、私はどうするか。

人間同士の殺し合いである「戦争」の起源や原因については所説あるようだが、「狩猟仮説」はどうも納得できない。(M・カートミル「人はなぜ殺すか」(新曜社 1995)欧米では狩猟は「ゲーム」という歴史があり、アメリカでは26州で狩猟教育として実際に子どもに銃で鹿やウサギを撃ち殺させている。 私の経験ではアメリカで「狩猟地区」はGame Areaと書いてあり驚いたことがある。人間は狩猟を生活のためだけでなく、「ゲーム」=「あそび」のためにやるのである。
「狩猟仮説」より、「人口増加」「土地不足」による「食料不足」により近隣部族との「戦争」が始まったという説の方が21世紀の現在も全く同じ構図であることを考えると説得的である。(M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか」(早川書房 1990)
スターリンが「共産主義にために」「国家、党のために」という名目でどれだけの無実の党員、市民、農民を収容所に送り、また虐殺したか。
(スターリンの犠牲者はプーチン政権下で当時の資料がまだ完全に公開されていないので不確定である。作家ソルジェニーチンは6670万人(1917-1959)、プラウダ紙の追加で4400万人、合計1億1000万人)
ヒットラーのユダヤ人虐殺はジェノサイドからホロコーストと呼ばれているが、スターリンの虐殺を「スターリンのジェノサイド」として著したN・ネイマークの著作はスターリンのサディズムとパラノイア(激しい攻撃性と強い猜疑心など)が友人、家族、親しい側近、部下を次々と裁判にかけ死刑にしてその裁判官もまた死刑にするという国家そのものを破壊した「共産主義」とはそもそも何であったのか。
いや「思想」というものはなかったのではと考えさせられ、胸騒ぎが収まらないでいる。(みすず書房2012)毛沢東の虐殺、餓死をあわせると「社会主義」「共産主義」の名のもとに殺された人な1億人は越すというからヒットラーも真っ青な数字である。

5)歴史の中の個人

映画「東京物語」の評価で世界的に有名な監督小津安二郎はアジア・太平洋戦争に従軍し、「毒ガス」部隊に所属していた。また、自身の日記に次のように書いている。この頃、中国人を見ても人と思えず猿のように見える。機関銃を打ってもなんとも思わなくなった。(田中真澄「小津安二郎 周游」文芸春秋 2003)小津映画が好きでよく見た私にはショックであった。小津は戦後家族の映画をたくさん作った。
中国でのことは胸の奥深くしまい込んでじっと耐えていたのか、戦後、それを語ったのか。人は誰でも心の底に「悪魔」(demon)を持つという。小津もその「デーモン」と戦ったのか、封印したままだったのか。
ハンナ・アーレントはアイヒマン裁判をみてアイヒマンが鬼でも悪魔でもなく、全く普通の人間に見え、アイヒマンの戦争犯罪を「悪の陳腐さ」(Banality of Evil)と称した。アメリカの心理学者によるいわゆる「アイヒマン実験」の恐ろしい結果はこれらのことの証明になるだろうか。
今次大戦に従軍した日本軍兵士の多くも中国その他の地域における蛮行には口をつぐんでいる。
そして、戦後、父として、兄として、社会人として過ごした。
「われらみなアイヒマン」は間違っていないかもしれない。しかし、これがわが国の戦争犯罪の責任をあいまいにし、未だに中国や韓国などの国々との清算が完全にできていない原因かもしれない。
市井が目を覆いたくなるような悲惨な水俣の患者に向けた眼が今少し私たちにあったならばということを思う。市井が「キー・パーソン」に挙げている人物は権力者、英雄ではない。渡辺崋山、坂本龍馬、山縣大弐、吉田松陰らである。
私なりの結論はまだわからない状態である。

参考文献
1.「共産主義黒書」(ソ連編)2016
2.同(アジア編)2017、いずれも筑摩文庫
 3.平井友義「スターリンの赤軍粛清」東洋書 
       4.舟越美夏「人はなぜ人を殺したのかーポルポト派、語る」毎日新聞社、2013
    5. B・ハットン「暴虐の人 スターリン」    新潮社 1962

      ネットで展開されている「市井三郎ゼミナール」は成蹊大学理学部の市井先生の一般教育科目「哲学」を受講した学生が市井先生に特別に願ってゼミナールを開いて始められたもので、卒業後も有志により続けられているものである。
       このようなことは稀有なことで市井先生の哲学に関する講義内容に大いに学生の胸を沸き立たせるものがあったにちがいないと思われる。講義を受けて終わりではなくさらに何かを求めようとする意欲を持たせる講義こそ「教育の本質」ではないだろうか。
        フランスの哲学者G・ギュスドルフは述べている。「教育の核心は教えられない何かであり、それでいて、教えられることがらに付け加えられて与えられる何かなのである。
         知識を売り物にする先生は誰にでも同じものを教える。他方、真の教師は各人にそれぞれ異なった眞理を知らせてやるのである。
         教師の果たす最も崇高な役割とは、このように知識を示すことを超えたところで啓示を伝えてやることにあるように思える。」
       市井ゼミはこのようなことを私たちに語りかけているように思われてならない。
       ( G・ギュスドルフ「何のための教師」みすず書房 1972)

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