大切な指針

市井Blades 順子
  
   


  『自分でよく考えて、もしそれが人に迷惑をかけないものだったら、世の中の常識とか、慣習とか、 規範とかに反するものであったとしても、自分が正しいと判断したことを行い、それを貫いてよい。しかし その場合に生じてくる様々な支障は、すべてそれを行った自分があくまでも責任をとらなくてはいけない。』 一見ひどく革新的なこの言葉。普通の親はこんなことを子供に教えないのではないかと思う。しかしこれは私 が父から学んだ、人生を生きていく上で一番大切な指針だと認識しているものである。

確か私が中学生の時、父に日本の教育制度のあり方を批判した時に、父が語った言葉だったと記憶している。 あの時の私は“受験のための勉強”がどうしても納得いかなくて、勉強をしない子だった。いや、どちらか というと勉強をしたくなかったから、こんな理屈を練っていたのかもしれない。まあどちらにせよ、その頃 の私には将来何になりたいとか、どうしてもこれがやりたいとか、そういう具体的なものが何もなかった。 そして学校で教わる教科の中で興味のあるものも全然見つけられなかった。それに加え、反抗心の強い年頃 だった私は、学校でまじめに勉強する“良い子”にはなれず、あらゆることに常に疑問を持つ“変な子”で あった。

30年近くも日本を離れて住んでいるので、今は日本の大学がどうなっているのかはよくわからない。しかし その頃の日本ではどこの大学出身か、が将来のキャリアにとって一番大切なことのように思われていた。その ため中学、高校の教育は大学受験のためのものになることが多く、詰め込み教育が大半をしめていたように思 う。その結果生徒たちは中学、高校の教育目的である大学へ入ってしまえば、もう勉強はしなくていいという ような気分になっていた。だから大学で真面目に勉強をしようとする人は少なかった。

事実日本の大学は海外の大学とは違い、入ってしまえば出るのは簡単という仕組みを持っていた。アメリカの プリンストン大学を訪れた時、その大学の図書館が午前2時ごろまで開いていることに驚き、また夜中12時を 過ぎてもまだ多くの生徒たちが図書館を活用していることを知り、非常なショックを受けたことがある。日本の 大学生とは何と違っていることか。大学は勉強をするところ、そして勉強をしない人は卒業できない。このよう な当たり前のことが日本では当たり前でなくなっているのだ、ということをここでもしっかり実感した。

父は私の日本教育批判を全面的に受け入れた。そしてそれはたいへん遺憾であると言い、しかしその改革は社会 機構をも改革していかなくてはならない難題だ、とも付け加えていた。残念ながらその時の私にはそんな大きな 問題を深く追っていくことはできなかった。しかし初めに記した父の言葉は深く私の心の中に染み込み、『受験 のための勉強はしなくていいんだ』ということだけが反抗期の私の中で広がっていったことを覚えている。

父はその時、決して受験のための勉強をしなくてよい、とは言わなかった。それは私が自分なりに父の言葉を理 解し、他人に迷惑はかからない、と判断し出した結論であった。あれから40年あまりの時間がたった今、私が これまでどんな人生を歩んだのか振り返ってみることにした。

中学時代にろくな勉強もせず、なんとか高校には入れたのだけれど、やっぱりそこでも受験のための勉強はでき なかった。そして中学時代と同様、将来に全く目的がなく、おもしろいと思える教科もなく、落ちこぼれ生徒の 道をまっしぐらに進んでしまった三年間だった。いつもいつも何か納得のいかない、悶々とした高校時代だった ことが強く心の中に残っている。大学受験をひかえ、将来なりたいものも、やりたいこともないため、どういう 道を進むべきなのか全くわからなかった。世の中では「青春は輝きの時代」と言われているのに、私の青春は灰 色だった。

そんな私を父は親として心配してくれた。『大学は勉強するところ、というのは正しいが、もし将来何がしたい かわからなければ一応大学に入り、4年間それを考える時間にするのはどうか。良いか悪いかは別として、日本 の大学は入ってしまえば卒業するのはそんなに難しくないし、少々できが悪くてもぼくが勤めている大学なら入 れてもらえるはず。その4年間はちゃんと養ってあげるから。』とまで言ってくれた。親として父は私の将来を 考え、やはり大学を出ていなければ将来苦労する、と思ってくれたのだと思う。

しかし私には、その父のやさしい思いやりを受けることもできないほど強い、自分なりの思考があった。まず、 勉強したいことがないのに大学へ行くのはやっぱり理にかなっていない。そしてたまたま市井三郎という父親の もとに生れたことで大学に入れ、経済的にも何の問題もない、ということがとても不平等だとも思っていた。日 本国憲法では「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治 的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とある。 しかし社会の現状を見ていると世の中は不平等 だらけだ。それを少しでも改善するには私たちひとりひとりが何かをしていかなくてはいけない、と真剣に思っ ていた。市井三郎の娘である、というある種の特権のようなものを持って生れ、世の中で生きていく上で他の人 よりも得な生活を与えられている。こういうことが素直にありがたく受け入れられなかった。十代後半の私は、 そんな不平等なことに甘んじることはいけないこと、という結論を出していた。それだけではなく、父の勤めて いる大学にできない娘が入れば、父に一番迷惑をかけることになる。父の言葉にもあったように、私の中で人に 迷惑をかけることは、してはいけないことであった。今から考えると、あの頃の私はなんと純真で強情だったの だろう、と愛しく思う。

結局日本の大学へは行かず、社会に飛び出し、いろいろな経験をした。もちろん大学出ではなかったことで様々な 支障にも出くわした。しかしそのことで私は誰にも迷惑をかけたつもりはないし、自分でその責任をとってきたと 思っている。

たまたま国際結婚をしたために海外に住むことになったのだが、これは全く思ってもいなかったことだった。その 上、考えてもいなかった母子家庭の生活がその8年後に始まってしまう。30歳も半ばに近い頃、ふと思うことが あり、二人の子供を育てながら、仕事をしつつ、大学で勉強することになった。今考えるとどうやってすべてをこ なしていたのか、よくわからない。記憶にあるのは子供たちとキャンプに行ったとき、私はテントの中で勉強をし ていたこと。研究課題の小論文を提出するのに徹夜で締め切りに間に合わせていたこと。たくさんの友達に助けら れて子育てをしていたこと。時間はあっという間に経ってしまって、今の自分がある。自分のルーツのない所で生 きていくということは、いろいろな障害にぶつかっても、自分ひとりですべてを解決していかなくてはならないと いうことだ。こういう環境を選んだ私に、子供をひとりで育てるという責任はほんとうに重たいものだった。

  それぞれの人生の節目で私は父の言葉を思い出していた。『自分でよく考えて、もしそれが人に迷惑をかけないもの だったら、世の中の常識とか、慣習とか、規範とかに反するものであったとしても、自分が正しいと判断したことを 行い、それを貫いてよい。しかしその場合に生じてくる様々な支障は、すべてそれを行った自分があくまでも責任を とらなくてはいけない。』

自分の人生は自分で選んで、責任をとってきたつもりだ。しかし、考えてみれば、別居、離婚という過程は子供たちに たいへん迷惑をかけてしまったかもしれない。親を経験した人なら多かれ少なかれあるであろう、自分の子育てに対す る後悔は私にもあった。そこでつい最近、28歳と25歳になった子供たちにこのことを話してみた。うれしいことに 二人とも私の子育てはプラス思考で、良い子供時代を過ごせた、という返事だった。『自分が親になったら、お母さん がしたのと同じように子供を育てたい』『想像できる母親像の中でベストの母親だ』とまで言ってもらった。胸がつま るほどありがたい言葉だった。子供たちは私の生き方を見て育ってきた。その子供たちが私から何かを学んだとしたら、 それはやはり私が学んだ、父からの大切な指針が強く影響しているのだと思う。亡き父にあらためて感謝するのと同時に、 これからの私の人生もこの姿勢でやっていこう、と胸に刻んでいる今日この頃である。

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