父を回想して
   
 
                                  (故)市井俊也

 父は当初化学者になろうとし戦中に阪大の化学科に学んだ。戦後、これまで日本の戦争行為を支えていた思想が否定され、世の中の価値観が大きく変る時代を経験した。 特攻隊に志願しようとまで思い、今まで信じていた考え方が一夜の内に否定される状況の中で、自分は今後どのように考えを律して生きるべきかに悩み、哲学の重要性を知り、 「自分が一番重要と思うものを仕事にしよう」という意思から哲学者の道を歩こうと決意した。戦後のドサクサで家族の明日の食料をどう確保するか思案しなければならない 時代に「食えない哲学」を志望するのであるから大変な決意であった。日本中が困窮の時代に、より哲学に時間を使える職に転々とし、一家としても最も経済的に苦労した時代 だったが、多少文句の多い母からも、父の哲学への転進への苦労の文句は聞いたことが無い。父母の間では哲学への道はそれ以外にはあり得ない当然の道であったようでもある。

その頃出た『思想の科学』創刊号を読み、父は感動し、早速、鶴見俊輔さんと会い、思想の科学研究会会員第一号となったそうである。ちなみにその頃生れた私の名前は俊輔さん の字をいただき俊也とつけられた。

父にとって幸運はイギリスへ留学し、主にK・R・ポパー教授から哲学の方法論を学んだことのように思える。父はどちらかというと哲学を選んだ経緯のように激情、直進型の所 があった。哲学の科学としての方法論を得なければ、主観が先に立ち、客観化、普遍化して自分の思考を反芻(ハンスウ)し、検証しながら進めることは難しかったと思える。 父は自ら意識して「市民の論理学者」と本書が命名される程、方法論に基づく論理を重視し、物事の是非に対する感情のほとばしりを殺して、公私の両面を過ごした人であった。

「論理的に表す」ことについては家庭の中でも徹底していた。ある時、父と母が駅で待ち合せをして、母が見つからないことがあり駅員に問い合せた会話、「ある人とここで待ち 合せをしているのですが、ある人とは私の妻なのですが、中年の小柄で美人なのですが、その様な人を見かけませんでしたか」という正しい表現をしてしまう。母はそばに居て父 に気づいたが、その会話を聞いて、言い方も話の内容も恥ずかしく、駅員が行ってしまうまで声をかけられなかったそうである。

父は哲学の時間と家庭の場の時間の切り分けをしなかった。家族から見ると常に哲学をしているように見えた。父に小さい頃どこかへつれていってもらったという記憶はほとんど無い。 父と最も多く接したのは、私が七〇年安保の学生運動をしていた時だった。三日に一度は夜中の三時、四時まで議論をした。その議論は父、または哲学者から息子への指導という姿勢 ではなく、息子の稚拙な論理に根気良く傾聴しながら、いっしょになって考えようという姿勢であった。仕事に忙しい父であったが延べ何百時間話したであろうか。父は息子に対し、 七〇年安保を題材にした哲学的考え方の育成に努力したように感じられたが、私には父の持つ人と真面目に接するしかた、人と物事を検討するしかた、父の持つ教育に対する姿勢、という 別の大事なものを得ることができた。

父を回想して改めて感ずることは「父は哲学に生きた」ということである。私の反抗期時代には父に対し、「哲学とは人について研究することから出発するはず、それを人と接触の無い書斎 にとじこもって酒飲みながら哲学ができるか」と反抗する意図で悪態をついたことがある。父は真剣に受けとめその後数カ月に亘って自分の哲学のしかたを検討し、言った息子は忘れた頃に、 しみじみと自分の哲学のしかたは今のやり方で行くと語り、息子の指摘をも真面目に受け止めていたことにドキッとしたこともあった。

このように戦後を契機に哲学を志向し、生涯を通して追求した父の足跡が、書物等を通して、人々の参考となり哲学の発展に役立てば、父にとって大きな喜びであろうと思われる。また そうなり得るかという自問が常に父を支配していたようにも思える。

この度、父の生き方に大きな影響を及ぼした思想の科学社より、鶴見俊輔様をはじめ多くの方々の御尽力により、父についてのこのような出版をいただくこととなり、生前のお付き合いと 合せて深く感謝いたします。ありがとうございました。

(『市民の論理学者・市井三郎』1991年 思想の科学社発行 鶴見俊輔・花田圭介編)




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