ITの急激な発達でも社会は進歩していない

大野恭史(泰史)   
   

えーっ!!! と思う人も多いでしょう。(笑)

これはいうまでもなく故市井先生の歴史の進歩とはなにか (1971年) (岩波新書)という従来の進歩史観とは全く異なる視点を示した著書があったからこその視点であります。

知らない人のために可能な限り簡潔に説明しますと我々が進歩と考えていることー例えば工業化、経済成長etcーには必ずそれに伴う「副作用」、といいますかそれらの進歩と引き換えにネガテイブな部分を社会にもたらしている、という点を市井三郎は指摘していまして、例えば公害とか昨今問題になっている地球温暖化などはまさにその「副作用」に当たるといってもいいでしょう。市井先生はそれを歴史の進歩のパラドックス」と定義し、その歴史の進歩のパラドックスによって生じる苦痛、(公害で苦しむ人々、温暖化に伴い起こる自然災害等)を不条理の苦痛」と定義しています。つまり進歩主義者は人類が生み出したテクノロジーや近代化のプラスの部分のみを見て、そうした歴史の進歩のパラドックス」の存在自体を認めようとしない、という点からすると従来とは全く違う進歩観を示した日本国内でも特色のある学風の持ち主の哲学者だったといえるでしょう。

今年はこの市井三郎名誉教授の没後20周年にあたりこのサイトをご覧の方は既にご存じの通りこの「市井三郎サイト」を大学のOBたちや市井先生のご遺族とともに立ち上げ、私はそのホームページの管理人という大役をおおせつかったわけです。
http://www.ichiisaburo.com 

あわせてこの市井三郎の思想を後世に継承し、哲学を目指す人たちへのサポートも目的とした市井三郎基金というものを設立しました。現在は任意団体ですが将来はNPOか公益法人も視野に入れてあります。

と、まあそういう背景があるわけですが、私自身はこの「市井三郎サイト」を構築しながらもし先生がもし今も生きていたら昨今のIT化した社会、あるいはグローバリズム等をどう見るだろうか、ということを考えてしまいました。

そして過去のテクノロジーの発展の時と同じくIT化した社会にもそうした不条理の苦痛」はたくさん発生しました。スパムメールスパム行為などはまさにそれに当たるだろうし、掲示板やブログでの「荒らし」行為などは時には個人の身の危険にまで発展した例すらあるし、パソコンを使っている人ならいつでも脅威にさらされているコンピューターウイルスなどもまさにその不条理の苦痛」にあたるでしょう。

 グローバリズムというのはまさに西洋の近代化論ー「西洋化=近代化」という観点の変形であり、要はグローバリズムという名の世界のアメリカ化に過ぎないことは昨今の状況から明らかでしょう。このグローバリズムとIT化は表裏一体で発展してきており、今もIT企業家やITジャーナリストの多くがそれをあたかもカルト宗教のように正義だと信じ込んでいます。IT化、グローバリズムがもたらす歴史の進歩のパラドックス」を全く考えようともしない点では従来の古典的な西洋的近代化論と基本的には何の変わりもありません。

 しかしスパマーや「荒らし」行為、ハッキング等を行なう人間はそのうちプロバイダーとの企業努力によってだんだん追放される方向に行くだろうし、ネットが人類に役立てるためにもそうすべきだと思います。すでにブラックリストなどが存在しているようですので、一度スパム行為や「荒らし」を行なった人間は二度と他のプロバイダーと契約できないようにして、ネット社会から永久追放すべき方向で考えるべきです。それらは時間がかかりますが少しずつそういう方向に行くと思われるし、いかないと正直困ります。

 だが、私はインターネットがもたらす歴史の進歩のパラドックス」でもっとやっかいで恐ろしい問題が存在していると考えています。それは掲示板、ブログ炎上の状況を見れば明らかですが、実は掲示板やブログが荒れる時はたいてい誰かが暴論や誹謗中傷を行なわれている時で、やっかいなことにネットではそういう時に「類は友を呼ぶ」というか同じような暴論的な見解を持つ人間が一箇所に集まる、という傾向がよくあります。

 そうすると普通に考えれば社会的に少数派の意見、暴論と思われるものがあたかも「多数派の意見」、正論であるかのように広まってしまう。特に日本人は一般的に情報に対するリテラシーが極めて低く、誰かがもっともらしく何かをいうとそれを鵜呑みにしてしまう人間が多い。

 かくして暴論があたかも正論であるかのような伝わり方をしてしまうのです。実は私はこれこそがネット社会でもっとも恐ろしいことであると考えております。典型的な一例を出しましょう。

例えば「全てのコンテンツは無料であるべきである」というのはまさに暴論があたかも正論であるかのように広まった典型的な例でありましょう。実際ネットユーザーのかなりの層がそう考えているのは過去のいろんなデータであきらかです。

■4割のユーザーがいかなる場合でもコンテンツにお金を払わない(ジャパンインターネットコム)

http://japan.internet.com/research/20010517/print1.html

無料=タダというのは価値がない=ゴミ同然の価値ということです。これは既に我々が古典、文化として定着しているものを含め、全ての文化をゴミ同然にしろと主張しているのに等しい議論です。だが総務省や経済産業省でのコンテンツ流通の推進委員会では実際にその手の議論が大真面目で議論されているようです。総務省でのコンテンツの流通促進委員会では、

(1) ネットに全てのコンテンツ(特に既存のテレビ番組)を流せば、全員がハッピーで全てがばら色になる

(2)全てのコンテンツが何でもタダ、というのが流通促進のあるべき姿である。

などということが真剣に議論されているようです。(1)のネットに流せば全てがばら色、なんてホリエモンじゃあるまいし、日常的にネットを使っている人間ならそんなことを鵜呑みにする人間などいるはずがないなんてことくらいわかるはずですがね。(2)のコンテンツ側にIT業者側が「おたくの商材を全部タダにして」などともし本当に要求していたとすれば非常識極まりないし、非常にふざけた話でコンテンツ業者を人間とすら思っていない証拠といって過言ではありません。(実際私もIT業者とコンテンツ制作の仕事をする際にコンテンツ制作業者を人間と思っていないのではないかと感じたことが時々ありました。)そしてそれを後押しする総務省も頭が悪すぎます。役人には東大出が多いはずだが役人になると急に頭が悪くなるらしい。

特に。(1)のネットに流せば全てがばら色、なんていう発言を本当にしていたとしたらそれはいまだIT熱に犯されている非現実的な夢想家の発言か、どうせコンテンツ屋なんてアナログ的な人間しかいないからとバカにした上での発言か、そのいずれかでしょう。確かに芸能プロや音楽制作会社のトップにアナログ的な人間が多いのは事実ですが、もし後者のケースで確信犯的に発言したとしたらそれは詐欺行為に等しいといっていいでしょう。 そしてそれを後押ししている総務省や経産省の役人の愚か者ぶりには本当に呆れて言葉も出ません。

暴論があたかも正論であるかのように広まり、それがコンテンツ産業自体を今結果的につぶそうとしている、というのが現状であることがこれによっておわかりいただけますでしょうか?

市井三郎論的にいう不条理の苦痛」によって今コンテンツ産業、文化そのものが21世紀に継承することすら危うくなり、ゴミ同然の価値にされようとしています。コンテンツのタダ同然のたれ流しこそが、コンテンツの流通促進であり、それでこそIT社会、ネット社会の発展につながる、と本気で考えている人間が少なくありません。しかしそうしたIT社会の発展による歴史の進歩のパラドックス」による不条理の苦痛」の犠牲者にコンテンツ業界はされようとしている。それはよいとはいえない、とまともな人なら思うはずなのですが..

だからあえていいます。

ITの急激な発達でも社会は進歩していない

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